宗玄生原酒
「宗玄」(そうげん)生原酒

Sogen,Japanese sake Sogen,Japanese sake
 石川県も米どころです。そこで,多くの地酒があります。
 珠洲(すず)市の宗玄酒造のつくる「宗玄」は石川ではかなり有名なお酒です。
 その「宗玄」の中でも,「生原酒」が私は大好き。
 ちなみに「原酒」ではありません。「原酒」と間違いやすいのですが,違います。「原酒」は年中出ていますが,「生原酒」は冬場の寒い時期にしかありません。
 また,包装も違います。お求めの際は,寒い季節に,しかも「生」であることを確認してお買い求めください。(別に宗玄酒造の回し者ではありませんが)
 「生原酒」は「原酒」に比べて,もっととろりとしていて,香りも豊かです。芳醇な味わいという感じですね。

 このお酒は,いつもこのように必ず包装紙にくるまれて売られています。
 やはり,日本酒はこのようにして,直射日光が当たらないようにしなくっちゃね。
 では,この包装紙に書いてある能書きを写しておきましょう。
 「ここに銘酒を生み出す自然の背景があった……米と水,それと熟練した酒造り人……杜氏。磨き上げた高精白米を伝統の手法と技術により北陸の寒夜をおかして造り出す能登杜氏の心意気と香も新たなしぼりたての原酒はまさに能登が生んだ味の芸術品と云えるでしょう。昔から「一麹,二もと,三仕込み」と云われますが,能登の宗玄は創業以来創意とまごころで酒造りに専念しています。しんしんと雪降る中で酒づくりの唄をうたいながら精進する能登の杜氏なればこそ生まれる最高の逸品生原酒宗玄は飲むほどにしみじみそのうまさがお約束できるお酒です。」
 ところで,「二もと」の「もと」というのは「酒母」のことですが,その漢字は「酉(とりへん)」に「元」と書く漢字です。JIS基本漢字外で表示されませんので,あしからず。

「宗玄」のふるさと珠洲市宝立町宗玄

宗玄バス停 宗玄の町  「宗玄」を造っている「宗玄酒造」は石川県珠洲市の宝立町宗玄というところにあります。
 その名も「宗玄」という地名です。
 (←バス停の名も「宗玄」)
 (海岸線に沿って走る旧国道を見る→)
 さて,この地名の起源は何なのでしょうか?そして,日本酒「宗玄」との関係は?
 ということで,ちょうど用事があって珠洲に行ったついでにこの「宗玄酒造」に立ち寄ってきました。
 そのときに,「宗玄酒造」で「宗玄酒造株式会社小史」のコピーをいただいてきましたので,それを載せてみましょう。
 以下原文のままです。

◎地名の起源と宗玄酒

 天正5年(1577)7月,上杉謙信が七尾城を攻め能登守護職畠山式部大輔義春を凌したとき,たまたま十三夜の月にまみえ,「霜は軍営に満ちて秋気清し」の七絶を詠じたことは,史上あまりにも有名であるが,そのとき一族の畠山左衛門尉宗元は,若年にして刀剣一振と共に城を脱れ,珠洲郡松波城に入り,城主畠山義親の許で成長したが,のち同郡鵜島村地内に田地二百石を贈られ,宗玄と改姓して一戸を構えたのが,現在の当社の場所である。
 慶長9年(1604)前田年長によって,十村の制度が布かるるや,まもなく十村役となり,のち次男に隣地を分かって分家させ,肝煎頭として十村役を補佐させた。
 里人からは,宗玄両家と呼ばれ,永く繁栄したので,いつしか地名を宗玄と呼ぶようになった。

【元禄14年(1701)郷村名義抄】
 「此村先年は,鵜島村の内にて御座候ところ,明暦2年(1656)に別村に相立ち,同村忠左衛門と申す百姓家名を宗玄と申候に付,村名に罷成り候よし申候」

sogen shuzou 【能登名跡志】
 「宗玄村に,すなわち宗玄の忠左衛門という古き百姓あり,この者あるをもって宗玄の名あり」

 古記録によると,明和5年(1769)宗玄家は酒造業をはじめている。そして,売り出された酒を里人は宗玄酒と呼んだとある。
 四代の主,忠五郎は見山と号したが,当時この地方で一般に飲まれている酒が,いわゆる「どぶろく」であり,酒の味も香りもあまり問題にされず,ただ酔いを買うだけのために酒が飲まれているのにあきたらず,自ら酒蔵に入って,苦心研究数年間にわたったが,良酒を得ることができなかったので,決然志をたてて酒造先進地に,その秘法を求めることとし,家郷をあとにしたのは,弘化元年(1844)の春であった。
 先ず,尾張国亀崎に赴き,ついで歩を当時日本一の美酒の醸造地として知られていた,摂津国伊丹,,灘地方へのばし,たまたま知った郷土出身の伊丹の酒造家松谷与兵衛方に身を寄せ,心魂を打ち込むひたむきな修行の末,漸く美酒造りの秘伝を習得するにいたったのであった。
 弘化4年(1847)春,故郷に帰った忠五郎は,研究の成果を発揮して純良の清酒を醸し,「剣山」と命名して売り出したが,地方では初めて見る清酒であり,忠五郎が他郷になめた酒造りの苦心談も評判となって,遠近に売れ行き多く名声を博した。
 ことに,富山湾をへだて,一葦帯水の,越中地方へ船便でどしどし持ち運ばれ,多くの愛飲者を得たのであった。
 嘉永6年(1853)4月,たまたま加賀藩主前田斉泰が,海防の要務で海岸巡視の際,宗玄家を本陣として一泊したが,「剣山」を知って大いに賞揚し,藩庫への納入を命ぜられることあり,その稀に見る芳醇さと,見山の努力に対し,しばしば賞を贈るなどのことがあって,さらに吟醸「剣山」の名声を確定的にした。

【能登名跡志】
 ”嘉永6年国守前田斉泰,領内巡視の途次,4月14日寺家の三崎氏より発し,妙巌寺,法住寺に休憩し,同白山神社に参拝し,宗玄村忠左衛門方に宿泊”

 しかし,世人は酒名「剣山」を呼ぶこと少なく,先祖伝来の「宗玄酒」と呼び慣れたのが広く喧伝されて現在に至っている。
 これが因縁から,現在も使用中のレッテルに,剣の山形の図案をあらわし,愛飲家諸賢にひろく馴染まれているところである。
 また,清酒「剣山」造り出しの時代には,能登,越中の酒家はことごとく「剣山」の看板を掲げ,清酒販売の招標とする有様であったことは,かくれのない事実であって,「どぶろく」一色に塗り込められていた酒の世界に,当時の愛酒家がいかに驚嘆をもって清酒を迎えたかを知ることが出来る。

(以上「宗玄酒造株式会社小史」より)