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生を明らめ死を明らむるは 佛家一大事の因縁なり

 1991年度 医王山中学校 1年1組 学級文集「Visage」最後の一文(1992.3.31発行)

 生を 明らめ 死を 明らむるは 佛家 一大事の 因縁なり
(しょうをあきらめ しをあきらむるは ぶっけいちだいじの いんねんなり)

                      SAKANE KOICHI

 この題名はいったい何なのか,きっとわかる人はいないだろうね。
 これは「修證義」(しゅしょうぎ)というお経の出だしの一説だ。
 君たちは浄土真宗のお経をよく聞くだろうし,知っているだろうけれども,これは,うちの宗派である曹洞宗(=そうとうしゅう=禅宗の一派)のお経である(らしい)。
 どちらにしてもお釈迦さまの教えがもとになっているのだけれどもね。

 さて,なぜこの題名かというと,最近よくお経を聞く機会があるからなのだ。そして,なぜかしみじみと,この一節が心に残るからなのだ。
 みんなも知っての通り,ぼくの祖母が,去る2月24日,92歳でこの世を去った。このページには,そのことを書く。

 なにしろ1899年,19世紀生まれである。そういう年老いた祖母には,何もこの世に物として残していったといえるような物はない。ましてや書き残していった文章もたかがしれている。
 そこで,ここに,ぼくが,こういう人間が生きていたのだということを書く。(ちょっと偉そうやね。)
 しかしこの文集とてもいつまでも残るわけでもないし,いつかはぼろぼろになり,ごみになり,土に還る。でもいいのだ。今のぼくの自己満足かもしれないが,まあ何か書いておこうという気になったので,ここに書く。

 祖母が生まれたのは1899年,明治32年,島根県である。とはいえ,どういう所だったのかはちっとも知らない。一度行ってみたいとは思っていたのだが,行けぬままになってしまった。
 江津(ごうつ)とかいうところらしい。
 その後の祖母の人生はといえば,複雑なものであった。
 詳しいことは聞いたことがない。
 いくつか知っていることもあるが,ここにはそういうことを書くつもりはないので,やめておく。

 いつだったか,島根の方言というのを聞いたことがある。
 どこへ行っても方言はあるが,島根ではこう言うが,わかるかといって聞かれたのが「かあいって,かあきんさい。」である。もちろんわかるはずもない。これは,誰かが出かけるときにこういって送り出すのだと言われてもよくわからなかった。
 共通語で言えば,「早く言って,早く帰ってきなさい。」となる。
 島根の方言でわかるのはこれ一つだね。
 あと島根のことでは,江川(ごうがわ)という川が流れていたというのを聞いたことがある。
なにしろ好奇心旺盛な,豪傑ばあさんだったから(その当時は若かったが)江川で大水が出たときには見物にいったそうである。
 そういえば,金沢に来て犀川の大水の時にも危ないので近寄らないようにと言われても,川の橋げたがほとんど沈むような大水を見に行ったことがあるそうだ。

 とにかく,元気な祖母だった。
 その秘訣はというと,何と言っても歩くこと,そして何でも食べることであろう。歩くことで言えば,年老いてからもよく出歩いたものだ。今年も,正月にはお寺参りに出かけていたのだ。
 なにしろ頻繁に出かけ,よく歩く。これが健康の秘訣である。足が衰え始めたのは,去年あたりからである。
 去年の秋頃だったかお寺まで車で送ってくれと言われて送っていったことがある。そのときには寄り道なんかしないですぐに帰って来るんだよと言ってお寺で降ろした。(まるで小学生である。)ところがどっこい,帰りに片町へ行きたかったからといって勝手にタクシーで出かけた。そして大和デパートで転び,店員に家まで送ってもらうなどどえらい迷惑をかけた。その時は家へ帰ってから,もう二度とお寺へも送ってやらないなどと年老いた祖母を叱ったものだ。
 それほど90過ぎても元気で,どこかへ出歩くのが好きな祖母だったのだ。歩くこと,これは本当に健康のもとである。

 しかしそんな祖母でも,やはり年には勝てなかった。あのきんさんぎんさんのようにはなかなかいかないものである。今年になってから急に足腰が弱くなっていたのだ。お正月こそは,元気にお寺参りをしていたが,2月に入り,急に家の中を歩くことすらままならぬようになってきた。
 それで苦労したのはぼくの母である。
 ちなみに,ぼくは自分の実家の近くに住んでいる。この祖母と一緒に暮らしていたわけではない。実家には,父母とこの祖母と3人暮らしであった。
 あまり歩けなくなり,手を引いたり,抱えたりして父と母は苦労をしていたようである。何しろ親不孝なぼくであるから,そんな苦労は知らずに,のうのうと暮らしておったのであります。

 こんな祖母の長生きの秘訣その二は,何といっても何でも食べることである。
 90を過ぎた老人とは思えぬほど毎日毎日出された食事は何でも食べていた。三食きちんと食べ,好き嫌いはほとんどせず,肉に野菜にご飯にときっちり食べていた。むしろ昔の方が好き嫌いがあった方だ。
 19世紀生まれであるから,純粋な日本食の方が好みであったのだ。
 例えばマヨネーズとかチーズとかは当然小さい頃食べたことがあるはずもなく,食べたくないと昔は言っていたように思う。しかしまわりの食生活も変わり,曾孫達が(つまりぼくの子供達である)マヨネーズのサラダとか,ハム類なんかをおいしそうに食べているとそれは何なのかと興味を示し,必ず食べてみるのだった。そして嫌がりもせず,まあほとんど食べてしまうのだった。

 しかしやはり2月になってからは,食事の量もぐんと減ってきた。この世を去る二週間ほど前からは,一日二食になったようだし,一週間前からはもうほとんど食べなくなってしまった。
 それでも死ぬ前の日の朝にはとうふを一切れ食べたそうである。
 ちなみに,前日はぼくはスキーに行っていて,祖母の顔を見たのはスキーから帰ってきての夜である。その晩の祖母は,もう目を見開いたまま眠っていたし,口も少し開けたままだった。そしてもうほとんどこちらからの呼びかけには応えず,死期が近いことをぼくに教えていた。それでも帰りぎわにおやすみとこちらが言ったときには少し口が動いたような気がした。
 次の日には,つまり祖母がこの世を去る日には,ぼくは普通通りに学校へと出勤した。
 そして午後は福井にいる姪が金沢大学を受験しに来るので,試験場の下見に連れて行くため学校を早退し,駅に迎えに行ったり金沢大学を案内したりしていたのだ。そのころのぼくは,職員室の電話が鳴る度に,ぼくを呼ぶのではないかと,いつもドキリとしていた。
 そんなぼくがついに呼ばれることになったのが2月24日の午後6時45分頃である。姪も交えて夕食をとっているときであった。実家の母からの電話で,もう祖母がだめだからすぐ来いとの電話であった。
 姪や娘達に何があったのかを悟られぬように,ちょっと用事があるからと家を飛び出し,吐く息が白い夜の道を近くの実家まで走ったのを覚えている。
 その晩は実家の父も外での会合があり,母は電話ですぐ戻るようにと連絡をとっていた。だがしかし,家に着いたときには祖母にはまだ息があった。あわてものの母の早合点で,まだ息はあったのだ。
 しかし,とにかくこの1週間くらい前から,祖母が眠るときにはまるで死んだように眠っていたのだ。口の近くに手をあててみないとわからないくらいの微かな息で,おまけに血の巡りが悪くなっていたから,手なんかもほんとにぞっとするくらいに冷たくて,じゃあおやすみねと握手をしてもほんとに冷たかった。あわてていた母を落ちつかせ,頚動脈が動いているからまだ大丈夫だと言ったときにはまだ父は着いていなかった。そして母はこれはまだ大丈夫だから,おまえは家へ帰ってもよいと言われたが,父もまだ帰らぬことだし,それに息の様子がこれまでになくおかしかったので,もうしばらくいると言って祖母の横に座っていた。
 午後7時過ぎのことである。
 だがしかし,呼吸のようすは本当におかしかった。それまでと違い,身体中で息をしているような感じだったのだ。静かに息をするという感じではない。全身を使って,身体中を動かして,一生懸命息をしているようであった。
 父が家に帰り着いたのが7時15分頃。祖母の顔を見た後,とにかく医者を呼んでおこうと祖母の部屋を離れて行ったときには,そう,もう最後の力で息をしていたのだ。
 祖母の枕元に座り,じっと呼吸のようすを見ていたその時だ,ゆっくり息をしたかと思うと,祖母の呼吸が止まった。
 思わずぼくは「息が止まった!」と叫んでしまった。
 祖母の側に寄り,脈をとった父が,ぽつりと一言「もうだめだ。」
 時に7時18分。
 その顔は,つい夕べまでの顔と全く変わらない顔で,ひどいと言うでもなく,もっと生きたいと言うでもなく,安らかにこの世を去った。
 夕べから目を開けたままで眠っていた祖母であったが,ようやく楽に目を閉じることができた。

 祖母は昔から死んだら着せてくれ,お棺の中に入れてくれと言うものがたくさんあった。元気で,どこへでも出歩いているときからそんなことを言っていたから,まだまだ死にそうもないし,適当に聞き流していたのだが,現実になってみると,いったいどこにしまったのだろうと捜すことになった。
 しかしそれもすぐに見つかり,中には手紙が入っており,とにかく望み通りのことは全部した。八十八カ所巡りをしたときの朱印入りの着物,その時のつえ,袈裟,すでに小さい頃に他界したぼくの姉と祖母が一緒に写っている写真,六文銭,とにかく望みのものは全部着せ,望みのものは全部入れた。
 その晩は,妻と二人で一晩祖母の横で起きていた。父と母はお通夜の晩のこともあるし,何よりもこの一週間,夜の祖母のことが心配でろくに眠ってもいなかったので,この晩は先に眠ってもらった。
 久しぶりに徹夜というものをした。
 妻と二人で,いろいろなゲームを持ち出してきて,それに興じ,ときどき線香をあげ,時には祖母の顔を見て,「よかったねえ。幸せだったねえ。」と言いながら,夜が明けるまで祖母の横にいた。
 でも本当に幸せだろうなと思う。
 92歳まで生き,何も苦しむことなくこの世を去り,まあいろいろとやりたいこともやっただろうしね。
 このようにしてこの世を去った祖母にはまだまだ思い出はあるが,その想いは胸の中にしまっておこう。みんなも死んだ後で,幸せな人生だったねと言ってもらえるようにしておきなさいよ。

 そこでこの一文の題名だ。
「生を明らめ,死を明らむるは佛家一大事の因縁なり」
 別に意味を研究したわけでもないし,誰が言った言葉かも実はちっとも知らない。
 だがきっとこういうことになるだろう。
「生きるということはどういうことなのか,死ぬというのはどういうことなのか,それをはっきりとさせ,探求することは,仏の道を歩むもの(つまり人間だ)の大きな生きる理由であり,また根本である。」といったようなことだろう。
 そう,みんな人間なのだから,そして,ちっぽけなたいしたこともない人間なんだから,もっと謙虚に日々暮らしてほしいね。
 そして,自分というものをじっくりと見つめてほしいね。
 それがきっと幸せな人生を歩む基本であり,始まりなんじゃないかな。
 祖母の手紙の最後にこう書いてあったね。

 「みなさん長生きして下さい。
                        合掌」

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