氷室饅頭(ひむろまんじゅう)
氷室饅頭(ひむろまんじゅう)

パソコンの上の氷室饅頭  これは金沢らしい生菓子の一つです。
 子どもの頃は,7月1日あるいは前日に家に帰ると必ずやこの「氷室饅頭」が用意してありました。
 この「氷室」(ひむろ)というのは雪を貯める場所ということです。
 冬の間に積もった雪を貯めておき,暖かくなってから,それを使うということです。
 もちろん大部分は溶けますが,それでも残ったものは,冷蔵庫などというものがない時代,とても貴重なものでした。
 加賀前田家では,7月1日(旧暦では6月1日)に氷室から氷を江戸の将軍に献上していたのでした。
 参考図書によれば,庶民もこの日に,寒の中で育った穀物を食べると,病気にならないということで,饅頭を食べたようです。
 それがいつの間にか「氷室饅頭」として,金沢では定着していったようです。
 さて,この「氷室饅頭」社会人になってからも,職場では必ず用意されていて,7月1日には机の上に置かれていたのでした。
 今回は職場で出たもの2個を,職場のパソコンの上に置いてみました。
 この饅頭の色が,三色ありまして,白,赤(まあ桜色というべきか),緑(こちらも若草色というべきか)で,お花見の時の花見だんごの色と同じ取り合わせです。
 今回の2個は赤と,緑。
 なぜこのような色なのかは不明ですね。
 昔は全部白かったのではと思われますが,饅頭屋の戦略でしょうか。
 その由来について記述してある部分については,下の補足説明に「稿本 金沢市史 風俗編 第一」からの部分を抜き書きしておきましたので,参考にしてください。
 また,関連する部分の写真も載せてみました。

−−  村の水車小屋の仕切り線です  −−

★補足説明★

 名著出版「稿本 金沢市史 風俗編 第一」金沢市役所,1973(復刻版)の175,176ページより。(表記は常用漢字,現代仮名づかいに改め,文末には句点を補いました。また,括弧内の読みがなはこちらで付けましたので,もしかしたら,違っているかもしれません。)

六月朔日

 この日,氷室とて一般に氷を噛みたれど,廃藩のとき,この事すでに止みにき。

氷室

 この日を氷室の朔日(ついたち)と称う。寒の中,地中に生じたる穀物を食すれば,腹中の虫を殺すとて,金沢にては,戸毎に熬米(いりごめ)を調え,麦饅頭を食し,平生は米,大豆,霰餅(あられもち)を炒りて作れども,氷室に限り,大豆を小豆に代ふる家もあり。又,麦,婉豆(えんどう)の類を食し,氷をも噛む。氷は遠く山間谿谷(けいこく)の間より積雪の残れるを取り来り,この日より,白山氷,白山氷と連呼して,市中を売り歩けり。この日,藩主前田家にては,江戸の本邸より幕府徳川家へ氷を献ずるの例にして,その氷は,石川郡二俣,倉谷の雪を氷室に貯え置けり。当時江戸市中といえども,氷を得ること容易ならざれば,前田氏よりの献上氷の残れるを獲れば,一片の氷をも珍重せりという。

−−  村の水車小屋の仕切り線です  −−

★関連写真★

兼六園内の氷室跡  一つは金沢城の向かいの兼六園(加賀藩主前田家の庭園)に残る,氷室跡です。
 これは,ここに冬の雪が貯められていた場所ということですが,今は穴が池になっています。
 場所は兼六園の中でも,最も東より,小立野口に近いところにあります。


 それから,湯涌温泉にある氷室小屋です。
氷室小屋 秋の様子 氷室小屋内
 ここでは,毎年冬場に氷室に雪を詰める行事,氷室から雪を取り出す行事(氷室開き)が行われています。
 上の2枚は,秋に撮影したものです。
 右はこのときの氷室小屋の内部です。ここに雪が詰められます。
 この入り口の案内には次のように書いてあります。

「昔禁中の行事に,氷室の節会(旧暦六月一日)があった。江戸時代,加賀藩はこの氷室の節句に間に合うよう,江戸まで氷室の「雪氷」を運び,徳川将軍家に献上していた。
 明治維新後は,夏場の天然氷や冷蔵庫の冷却用氷等として利用されていた。ここ湯涌地区には,昭和三十年ころまで氷室があった。歴史的,文化的遺産として復元したこの氷室は,間口三メートル,奥行き四メートル,深さ二・五メートル,屋根組みなどは,昔そのままの,工法で造られています。
          昭和六十一年二月吉日
              湯涌温泉観光事業協同組合」

 さらにおまけの写真(写真提供:金沢市)
氷室への雪詰め作業 冬の氷室小屋 氷室開き

左より氷室への雪詰め作業,冬の氷室小屋,氷室開きの行事。

−−  村の水車小屋の仕切り線です  −−