坂根情報
「坂根」に関していただいたおたより −D(4ページ目)−
−−丹後半島の「坂根」−−

 野田川町の坂根さんからいただいた丹後半島の「坂根」に関するおたよりです。
 さまざまな資料をもとにした,さまざまな話題が登場します。
 みなさんからのおたよりもお待ちしています。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第1話 (2003-06-16)

 野田川町の坂根氏の歴史については,「野田川町誌」に記載されています。
 (この本には,各所に誤った内容も含まれていますが。)
 野田川町幾地の坂根氏は,天正年間まで遡ることができるようです。
 当時の幾地城城主,石川左衛門尉秀門の娘を石川氏家臣であった坂根斎(いつき)が娶ったということです。
 石川左衛門尉秀門は,宮津城内で石川氏の主君である一色氏が細川幽斎に誘殺されたとき,運命を共にします。
 石川氏の留守を任されていた坂根氏が,石川氏滅亡後に城主となったと伝えられています。
 しかしながら,これら一連の出来事は,天正10年のことであり,すぐに細川氏の丹後一元支配体制が整いますから,坂根氏が城主であった期間は1年もないと思います。

 「坂根」という地名についてですが,私は「あの世とこの世のさかい」という意味があるという説を支持します。
 「坂根」の地名分布を見ると,「坂根」の地名は出雲国と因幡国を囲むように分布しています。
 「坂根」は古代出雲勢力の境界を表していたのではないでしょうか。
 古事記では,出雲国を「黄泉の国」に見立てているそうです。
 もしも単なる「峠の麓」の意味であれば,日本全国に「坂根」という地名が分布しているはずです。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第1話補足 (2003-06-17)

 第1話について簡単に補足をしておきます。
 室町時代の明徳の乱以降,丹後国は一色氏の領国でした。
 そして一色氏の守護領国体制は,かろうじて天正年間まで続きます。
 (ただし,厳密に見た場合は末期は守護領国とはいえないかもしれません。)
 一色氏は,丹後国を5人の有力国人に治めさせます。
 守護代の延永(のぶなが)氏,「国の奉行」とよばれた石川氏・小倉氏・伊賀氏,「御一家」とよばれた吉原氏です。
 石川左衛門尉秀門は「国の奉行」石川氏の系統に属するようです。
 石川氏は永正の頃に守護代延永氏と争い,延永氏を打ち負かすほどの有力国人でした。
 天正7年に明智光秀が丹波・丹後の平定に成功しますが,丹後平定には細川幽斎も加わります。
 丹後平定戦は,明智・細川軍の完全勝利ではなく,弓木城で頑強に抵抗した一色氏を攻略しきれなかったようです。
 そこで,細川幽斎は明智光秀の助言に従い,娘を一色氏の嫁にやり和議を結びます。
 ここから,一色氏・細川氏による丹後国の二元支配が始まります。
 一色氏は弓木城を本拠地とし,細川氏は舞鶴田辺城を本拠地にして宮津城を支城とします。
 この丹後二元支配の時期に,石川氏は幾地城を居城として岩屋・幾地・四辻・亀山地区を支配しました。
 確か「丹後三家物語」という古文書にあった記述だったと思うのですが,一色氏が宮津城で誘殺されたとき,近隣の一色方城主が降伏したという記述がありました。
 その中に「幾地の地頭」も降伏したとあります。
 名前までは書いてなかったのですが,この「幾地の地頭」が坂根氏だったと私は考えています。

 次に「坂根」の地名について,少し補足します。
 古代出雲国は,古事記の中で死後の世界である「黄泉の国」に見立てられていると述べました。
 なぜ「黄泉の国の境」=「坂根」なのかといえば,「黄泉の国」は別名が「根の国」だからです。
 「根の国の境」=「坂根」なのです。
 こんな事を書くと,「坂根は不吉な名前じゃないか。」と考える人がいるかもしれません。
 しかし,これはあくまでも私の説であって,本当かどうか明らかではありません。
 また,出雲世界が死後の世界という見方は,大和朝廷の見解で,まったく非科学的なでたらめな見方です。
 だから,「坂根」に「あの世とこの世の境」という意味が含まれていたとしても,まったく気にする必要はないと思います。
 坂根姓を最初に名乗った先祖は,おそらくたまたま「坂根」という地に住んでいたのでそう名乗ったのでしょう。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第2話 (2003-06-19)

 第1話では,野田川町の坂根氏の歴史が天正年間まで遡ることができるというところまでお伝えしました。
 では,天正(元年=1573年)より昔に坂根氏は,野田川町の地すなわち加悦谷に存在していたのでしょうか。
 それを知る手がかりは,天文7年(1539年)頃に作成されたと考えられる「丹後御檀家帳」という資料にあります。
 この資料中の加悦の記述はこうです。

 与謝郡

 かやの御城     石川殿(国の御奉行也)

 かやのいちばにて  石川殿おとな衆  和田縫殿助 殿
                    伊藤新太郎 殿
                    芦田左京進 殿
                    池辺長左衛門殿

 かやのうつ山村   石川殿御子息
           地蔵院 大願院

 どうやら天文7年頃に,坂根氏は加悦谷にはいないようです。
 次に,竹野郡の記述を見てみましょう。

 竹野郡

 しまのたかをと申城 石河中務丞 殿
            森 左京 殿
           岡山小七郎 殿

 たかお御城のふもと さかね三郎兵衛 殿  今西五郎左衛門 殿
           佐藤治郎左衛門 殿  今西太郎左衛門 殿
           佐藤小治郎   殿  今西治郎左衛門 殿
            森 新衛門  殿  今西五郎左衛門 殿
            森 源右衛門 殿

 みそ川       坂根彌太郎 殿
           梅田治郎五郎殿
           梅田八郎九郎殿

 これらの記録から,天文7年頃には「高尾城」の麓とその近くの「溝川」に坂根氏がいたことがわかります。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第3話 (2003-06-20)

 竹野郡「島」の「高尾山」や「溝川」は,現在の竹野郡網野町東部の島津地区にあたります。
 「たかお御城のふもと」に「さかね三郎兵衛 殿」が住んでいますが,この「さかね」は「坂根」ではなく,「嵯峨根」なのではないかと考えています。
 「丹後国竹野郡誌」に次のような記述があります。

 嵯峨根又左衛門は天文十三年高尾城に戦死す(嵯峨根所蔵記録)

 「坂根」と「嵯峨根」が同族なのか別族なのかを論じると,話が長くなるので(もう十分長いのですが。)やめておきます。
 話を竹野郡における「坂根氏」に戻します。
 竹野郡における「坂根氏」の存在は,「丹後御檀家帳」以外の文献にも記述が見られます。

○「丹後旧事記」に見られる記述

  島村城  坂根 修理亮

○「一色軍記」にみられる記述

  床尾山城 坂根 修理亮

 「丹後国竹野郡誌」は「床尾山城」について次のように説明しています。
 「字島 床尾神社の古址を床尾山といひ,床尾城はここに築きたるものと見ゆ,三層より成れる広大なる址あり」
 「島村城」と「床尾山城」は同義と考えられます。
 「丹後旧事記」や「一色軍記」に列記されている城主の名前は,天正年間のものですから,「丹後御檀家帳」の時代よりも後のことですが,天文年間から天正年間にかけて竹野郡島村に「坂根氏」が存在したことを裏付けています。
 では,天文年間(元年=1532年)に竹野郡島村に住んでいた「坂根氏」が,いつ,どのようなきっかけで与謝郡幾地城へ移動したのでしょう。
 それは,第4話でお話しします。
 丹後以外の「坂根さん」,丹後の「坂根氏」の歴史ばかり書いて申し訳ありません。
 もう少し話はつづきますが,いずれ丹後以外の「坂根氏」にも話が広がる予定なので,我慢してください。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第4話 (2003-06-23)

 竹野郡の坂根氏の移動を考える場合,天文年間(元年=1532年)から天正10年(1582年)までの50年間,丹後の状況がどのように変化したのかを確認しなければならない。
 しかしながら,天文年間の「丹後御檀家帳」作成以降の文献が非常に少なく,この50年間は「丹後欠史時代」と言われるくらいである。
 それでも,いろいろ調べてみると,次のような丹後の情勢を転換するような出来事が起きていたようである。

○天文7年(1538年)
 一色氏は,竹野郡と与謝郡の府中と石川(地名です)に三家が存在し,丹後の勢力も三極に分裂している状況にあったとみられる。

○天文13年(1544年)
 熊野郡から竹野郡の一部にかけて勢力をもっていた伊賀氏が反乱を起こす。
 石川直経(御檀家帳にみられる「かやの御城」の城主)・その長子石川小太郎自刃。

○天文20年(1551年)
 田辺(現在の舞鶴市)代官伊賀次郎右衛門尉が,若狭武田氏の家臣,山県氏・白井氏に攻められ敗死。

○永禄元年(1558年)
 松永久秀の弟である内藤宗勝(もとの名は松永長頼)丹後へ攻め込み要所(与謝郡)を支配。

○永禄8年(1565年)
 内藤宗勝,丹波黒井城の荻野(赤井)直正に攻められ敗死。

○天正2年(1575年)
 丹波の荻野氏(赤井氏)・波多野氏,丹後・但馬に攻め込み領地を横領。
 石河氏がこれに組する。

 この出来事のいずれかがきっかけとなって,坂根氏が竹野郡から与謝郡へ移動したと考えられます。


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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第5話 (2003-06-23)

 第5話というより,第4話の続きなのですが,坂根氏がどの時点で幾地の地へ移動したのか,自説を述べます。
 おそらく,天正2年(1574年)に荻野氏(赤井氏)・波多野氏が丹後・但馬の領地を横領し,石河氏もこれに組していますが,このとき,坂根氏も石河氏に従って幾地に来たと考えています。

(理由1)「丹後旧事記」や「一色軍記」の幾地城の記録では,幾地の城が2箇所にあり,一方の城の城主が赤井氏でもう一方の城主が石川氏になっている。
 これは,天正年間に赤井氏と石川氏が共同で幾地を支配したことを示唆している。
 また,幾地城下の町割りは,荻野(赤井)氏の本拠地であった黒井城下の町割と酷似している。

(理由2)幾地城跡を調査すると,郭などの防御施設が他の山城に比べて貧弱である。
 このことは,幾地城の構築期間が短かったことを示唆している。
 ちなみに,幾地城の廃城は,一色氏が滅亡した天正10年か翌年の11年と考えられる。

(理由3)一次資料によって「幾地」の地名が最初に見られるのは,「智恩寺過去帳」にある天正14年(1586年)の戒名の記録である。
 「幾地」という地名が付けられた時期は,天正年間である可能性が高い。

 本来なら,坂根氏が竹野郡から移動してきたことを示す一次資料や記録によって証明すべきなのですが,残念ながらそのような資料がないので,状況証拠の積み重ねによって推論するしかないのです。
 私の説を補強する伝承が他の氏族にあります。
 加悦町金屋の井上氏に伝わるものなのですが,「加悦町金屋の井上氏は宇川から移動した。」という伝承です。
 井上氏は,金屋城の城主であった時期があるのですが,この城はもともと石川直経が本拠地にした賀屋(かや)城の跡なのです。
 石川氏の後に井上氏が宇川(現在の丹後町)から移ってきて城主になったらしいのです。
 長いわりには歯切れよい解説にはなりませんでした。
 天正年間よりも古い坂根氏は,竹野郡島村にあったということは御理解いただけたと思います。
 第6話では,天文年間よりも古い坂根氏はどこにいたのかをお伝えしたいと思います。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第6話 (2003-06-24)

 天文年間(元年=1532年)以前に,坂根氏はどこにいたのだろうか。
 この問題を解決する糸口は,前回紹介した「丹後旧事記」と「一色軍記」の中にありました。
 「丹後旧事記」の「島村城 坂根修理亮」城主名の後に次のような説明が付してあるのです。

 「坂根修理亮は下岡城にて戦死ありけるひとなり,この人宝徳年中加佐郡左武嶽の城主なりけると田辺府志に見へたり,一色家に従い竹野郡島村 へ居を移す。」

 「一色軍記」では

 「宝徳年中加佐郡左武ケ嶽に籠居し後一色にしたがひ竹野郡溝川に住するなり」

 「田辺府志」には「佐武ケ嶽城」について次のように記してあります。

 「後花園院宝徳のころ,坂根修理亮といひし武人左武嶽にかきあげして居しなり,後村上貞和のころは嶋津下野守居せり,崇光院貞治のころは沙弥信洞といひてあり」

 また,「丹後旧語集」には次のような記述があります。

 天香山桂林寺 越前永平寺末

 寺領三十石福井村にて地方門前町屋十四五軒有後小松院応永辛巳年○翁雄仙和尚開創号洞林寺其時之地頭○寺領三十石寄附有之,其後花園院宝徳三辛未八月十五日地頭阪根修理亮先祖宝光院心華父桂林院のために新に三十石寄附有之,其後幽斎公田邊に入給ふて阪根へ寄附を出されて開山この方有し,寺領三十石天正十一年癸未八月寄附有其證書給わり,古鐘一口附せらる。(○は字が不明なところ)

 簡単に解説すると

 寺領三十石で福井村に門前町屋が14,5軒ある。
 後小松院のころ応永年間に○翁雄仙和尚が洞林寺を開き,その時の地頭が30石を寺領として寄附した。
 その後,(後)花園院宝徳3年8月15日,地頭である阪根修理亮が,先祖である宝光院,心華(院)の父,桂林院のために新たに30石を寄附した。
 その後,(細川)幽斎公が田邊(現在の舞鶴)に入部して,阪根が寄附をして開山以来所有してきた寺領30石について,天正11年8月に證書(安堵状)をもらい,古鐘1個も付けてもらった。

 坂根修理亮は,宝徳年間(元年=1449年)に加佐郡田邊(現在の舞鶴市)の「佐武ケ嶽城」城主であったようです。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第7話 (2003-06-26)

 「丹後旧語集」に記述されている「宝光院」「心華院」「桂林院」について,近年刊行されたている郷土史の中では,「坂根修理亮の先祖」という解釈はなされていません。
 「京都府の地名」(平凡社)では,田邊郷(現在の舞鶴市)について「中世後期,阿波国守護細川成之の知行するところであった。」と説明し,上記の3つの戒名について,「宝光院は細川義之,心華院は細川満久,桂林院は細川持常であると思われる。」としている。
 戦国最後の丹後支配者となった細川幽斎の影響が大きいのか,郷土史のなかでは,丹後(特に舞鶴)と細川氏の関係に恣意的に注目する傾向が強いように思われる。
 そもそも,舞鶴は丹後・丹波(綾部市)・若狭という3国の隣接地域であり,南北朝から戦国にかけて領主が頻繁に交代したであろうことは素人でも容易に予想できる。
 にもかかわらず,細川氏以外の領主についてはほとんど無視するかのような研究は,はたして正しいのだろうか。
 とにかく,現在の研究段階では「宝光院」「心華院」「桂林院」が,細川氏の先祖であるとする説が支配的です。
 しかし,私は,これら3つの戒名については,「田邊府志」「丹後旧語集」の記述から勘案して,坂根氏の先祖であることを主張します。
 「丹後国竹野郡誌」に,桂林寺が坂根氏ゆかりの寺であり,桂林院が坂根修理亮であることを示す決定的な記述があります。

舞鶴桂林開基の木牌


 當山開基桂林院殿傑峰宗俊大居士神祇

 當山開祖老古佛
 後花園帝 寛正四年

 鎌足二十三世宇都宮治部太夫公綱弟坂根氏
 内記堯綱之子兵部綱修嫡
 従五位下 修理亮 藤原綱光 宝徳元己巳八月十五日辛

この木牌の内容については,第8話でお伝えすることにしましょう。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第8話 (2003-06-30)

 舞鶴桂林開基の木牌の裏書に注目しましょう。
 大化の改新で有名になった藤原鎌足から数えて23代目にあたる,宇都宮公綱の弟が「坂根氏」を名乗った。
宇都宮堯綱(たかつな)の子である綱修の嫡子,従五位下修理亮 藤原綱光。
 宇都宮氏は,現在の栃木県宇都宮市あたりの豪族であり,鎌倉時代には幕府評定衆に列せられるほどの鎌倉幕府の重鎮であった。
 宇都宮氏の歴史を説明すると長くなるので省略します。
 宇都宮公綱は,鎌倉末期から南北朝にかけての武将で,楠木正成が鎌倉幕府に反旗を翻したとき,北条高時の命を受けて討伐に参加しています。
 南北朝の動乱期には南朝に味方したということです。
 宇都宮堯綱については,宇都宮氏系図に載っていません。
 庶子が系図に載らないことはよくあることですから,系図に載っていないから堯綱は実在しなかったということはないと思います。
 そもそも系図というものは,改ざんや捏造されたものが多く,信用できないのです。
 宇都宮堯綱が「坂根堯綱」と名乗ったと,私は解釈しています。
 次に,綱修については,「堯綱の嫡」ではなく「堯綱の子」と記録されていますから,綱修は堯綱の嫡子ではなく庶子であったと考えられます。
 綱光は,「綱修の嫡」となっていますから,綱修の嫡子であり,「従五位下 修理亮」という官位・官職をもらっています。
 この「修理亮」が,戦国時代末期の天正年間まで襲名されることになります。
 「丹後旧語集」の「宝光院」「心華院」「桂林院」は,誰を指しているかといえば,

「宝光院」=宇都宮(坂根)堯綱
「心華院」=坂根綱修
「桂林院」=坂根綱光

ということです。
 「丹後旧語集」に「宝光院心華父桂林院」というくだりを再度解釈し直すと次のようになります。

「宝光院,心華(院),(30石の寄附をした二代目坂根修理亮の)父である桂林院」

 坂根氏の祖が宇都宮氏であるとすれば,この宇都宮氏はどこから来たものなのでしょうか。
 舞鶴の坂根さんから教えていただいた伝承に,次のようなものがあります。
 「舞鶴の坂根氏は伊予国(現在の愛媛県)から来た。」という伝承です。
 この伝承が,宇都宮氏とのかかわりを伝えているものだと考えています。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第9話 (2003-07-01)

 宇都宮氏の発祥の地は,下野国(現在の栃木県)ですが,後に九州豊後国(現在の大分県)の守護となり,鎮西宇都宮氏として発展する支族があります。
 また,承久の乱の折,宇都宮氏に伊予国の守護職が与えられて,伊予宇都宮氏を称する支族が戦国末期まで続きます。
 舞鶴の坂根氏の「坂根氏は伊予国から来た。」という伝承は,伊予から直接来たのか,どこかを経由して来たのか,いつ来たのか,詳しいことはまったく判らないけれども,伊予宇都宮氏とのつながりを伝えていると考えられます。
 桂林開基の木牌に見える堯綱は,宇都宮公綱の弟となっている。
 これがもし事実であったとすれば,堯綱は下野国に住んでいたかもしれない。
 しかし,南北朝動乱期に公綱も軍勢を率いて関西に移動し,楠木正成と戦ったりしているのだから,堯綱も関西に従軍しているはずである。
 第8話で宇都宮公綱は南朝に味方したと書きましたが,子の氏綱が北朝に味方したため,後に北朝(足利方)の武将となりました。
 足利尊氏は,一度南朝軍に敗れて九州まで都落ちをしますが,このとき伊予宇都宮氏や鎮西宇都宮氏に,堯綱は身を寄せていたことがあったのかもしれません。
 後に,因幡国か備前国の「坂根」という地を恩賞にもらい,「坂根堯綱」と称したのではないでしょうか。
 このようなことを書いても,資料が全く無いので,想像以外の何ものでもありません。
 ですから,特に中国地方の坂根さんにお願いするのですが,どのような伝承でもかまわないので,何かあればこの「坂根情報」HPに投稿してほしいです。
 私は,丹後の坂根氏が因幡国か備前国北部から来たような気がしてならない。
 なぜならば,我が家の伝統として正月元旦に雑煮ではなく「ぜんざい」を食べるからです。
 この話は第10話でお話ししましょう。
 第9話は,あまり根拠のない話でした。
 しかし,丹後の坂根氏は,宝徳年間までさかのぼることができるということは,納得していただけたでしょうか。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第10話 (2003-07-02)

 私の家では,正月元旦には「雑煮」を食べずに「ぜんざい」を食べます。
 この風習は子供の頃から疑問でした。朝早くから甘いぜんざいを食べるのは正直いって好きではなかったのです。
 母は,「ぜんざいには小豆が入っているので,まめに働けるようにという意味で食べるんです。」と子供の私に説明していました。
 そして,この風習は我が家の伝統であるから,雑煮に変えたりしないようにと言い聞かされました。
 丹後の坂根氏がすべて正月元旦に「ぜんざい」を食べる風習があるとは思えません。
 日本の近代化によって,古くからの民俗は消滅していきつつあります。
 ですから,昔には「ぜんざい」を食べていた家でも,現代になって全国標準の「雑煮」に変わった家は多いと思います。
 しかし,丹後には坂根氏に限らず,現代でも正月元旦に「ぜんざい」を食べる家は残っています。
 子供のころからの疑問だったので,一度「ぜんざい文化」の残っている地域を調べてみたいと思っていました。
 すると,偶然見つけたのですが,JΑF会報紙の特集記事に,「雑煮文化」と「ぜんざい文化」の分布図が載っていました。
 「ぜんざい文化」の分布地域は次のとおりです。

○ 島根県東部全域(松江市以東)
○ 島根県東部と広島県の境付近
○ 鳥取県全域
○ 鳥取県と岡山県の境付近(津山市の近くまで)
○ 兵庫県豊岡市
○ 丹後

 地図で示せばもっと解りやすいのですが,坂根の地名分布と「ぜんざい文化」圏は一致する部分が多いことがわかります。
 兵庫県豊岡市や丹後に「ぜんざい文化」があるのは,出雲国か因幡国から伝わってきたということでしょう。
 「ぜんざい文化」は「出雲文化」なのだと思います。
 そして,「坂根」という地名は,「出雲文化」圏の境界を表わしているのだと思います。
 さて,昔にさかのぼることは,私の知識ではもう限界です。
 おそらく,坂根氏発祥の地は,備前・備中・出雲・因幡のどこかにあるはずです。
(私の推測では,伊予宇都宮氏との関係を考えると備中の坂根,すなわち岡山県の坂根の可能性が高いと考えています。)
 しかし,新しい情報が得られなければ,推測の域は抜けられません。
 第11話からは,天正10年以降,すなわち丹後一色氏が滅亡してから坂根氏がどうなったのかをお話ししたいと思います。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第11話に入る前に (2003-08-19)

 坂根氏由来について第10話まで投稿した坂根です。
 家紋についてお話が寄せられているので,一色氏滅亡後の坂根氏の歴史に入る前に,家紋と宗教について少し考えたいと思います。
 我が家の家紋は,「丸に梅鉢」です。加悦谷祭りでは,夜に「献灯」と書いた提灯を各家が出すのですが,その提灯に家紋が書いてあります。
 それらを見ると,幾地地区の坂根氏は「丸に梅鉢」か「梅鉢」のいずれかです。
 ただし,梅鉢紋は,幾地の坂根氏に限定された家紋ではなく,多くの家で使用されているものです。
 このことは,加悦町・野田川町の訃報広告に家紋が入っているのでわかったことです。
 梅鉢紋は天神信仰に由来するといわれています。
 南北朝時代に,一色氏は九州に派遣され南朝方と戦いますが,その九州に派遣された一色氏が大宰府天満宮を信仰したと伝えられています。
 与謝郡において,比較的多くの梅鉢紋を見かけるのは,一色氏の天神信仰と関係があるのではないかと思います。
 さて,「坂根情報」HPを読んで判ったことですが,同じ野田川町の坂根氏でも家紋や宗教が異なるということです。
 野田川町幾地の坂根氏は,家紋は「梅鉢」,宗派は臨済宗妙心寺派。
 野田川町のもう一つの坂根氏は,家紋は「違い柏」,宗派は曹洞宗。
 幾地地区には,臨済宗妙心寺派の「養源院」という寺があり,幾地に隣接する四辻地区には曹洞宗の「宝泉寺」があります。
 おおむね,幾地の坂根氏は養源院檀家で,四辻の坂根氏は宝泉寺檀家です。
 同じ禅宗でも,臨済宗は京都五山(妙心寺は五山ではないが)を中心に室町幕府が保護した宗教であり,曹洞宗は臨済宗に比べると室町幕府の影響が少ない宗教です。
 いずれの宗教も,鎌倉から室町にかけて武家層を中心に支持された宗教です。
 以前,坂根氏とかかわりの深い寺として紹介した舞鶴市の「桂林寺」も曹洞宗の寺です。
 私が知っている舞鶴の坂根さんは,桂林寺檀家です。
 このことから考えると,曹洞宗の坂根氏が主流派なのではないかと思います。
 幾地の坂根氏は,特殊なのかもしれません。
 理由としては,養源院が幾地城の下にあることから,もともとは石川氏の菩提寺であった可能性が高いこと,石川氏の娘を幾地の坂根氏が嫁にもらったことなどが挙げられます。
 幾地の坂根氏は石川氏と姻戚関係となったため,他の系統の坂根氏とは異なる存在になったのではないでしょうか。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第11話 (2003-08-25)

 いよいよ一色氏滅亡後の坂根氏についてお話ししたいと思います。
 といっても,実は近世については不勉強で,あまり詳しいことはお伝えできないかもしれません。
 また,歴史が下るにしたがって,家系は多くの系統に分かれていきますから,すべての坂根氏について調べることも困難です。
 坂根氏の一部しか取り上げていないので,その点は御容赦願います。
 さて,先日「柏紋」についてお伝えしたので,神職になった坂根氏についてお話ししましょう。

 「宮津事跡記」に,次の記述があります。

 慶長四年己亥十一月,細川忠興は神の御告によって,菅野村孫太郎山稲荷明神を下宮津之市場に御引移し相成る。
 然る處,一色家幕下竹野郡島村元城は坂根修理進が弟を,下宮津に分家させ,右孫太郎稲荷の宮守とす。

 「菅野村」は,現在の伊根町菅野の地域で,戦国時代には二階堂氏の代官であった三冨氏が領有していました。
 一色氏の滅亡によって,菅野も細川氏に征服されます。
 また,「坂根修理進」は「坂根修理亮」の誤りでしょう。
 非常に興味深いのは,細川忠興が「神の御告によって」丹後の山奥の菅野村孫太郎稲荷明神を,わざわざ下宮津に勧請していることです。
 勧請した理由は,単なる「神の御告」などではなく,何か「神の御告」の背景があったはずです。
 それについて考えると長くなるので詳しくは書きませんが,一色家元武将の弟である坂根氏を宮司に迎えていることから考えると,一色氏の怨霊を鎮める目的があったのではないかと考えています。

 神職の坂根氏は,江戸時代後期の資料にも見られます。
 次の資料は,「宮津市史 資料編 第三巻」で見つけたものです。

 口上覚
 私共自前々帯刀仕来候所,其後勝手ニ付,一刀ニ而御城下徘徊仕候,
 然所,今度京都吉田家御役人大角東市参,神祇道都而取締相改有之候,
 右ニ付,御目見仕候社人之,向者御届申上致帯刀候様被申聞候ニ付,以来御城下帯刀ニ而徘徊仕度奉存候,
 此段御届申上候,以上

 文化元年子十一月

 八幡神主 毛呂 下野
 稲荷神主 坂根 筑前
 山王神主 牧  但馬
 天神神主 細見 豊前
 一宮神主 海部 周防
 分宮神主 嶋谷 志摩

 この口上の内容は,次のとおりである。

 私たちは以前から(大小の刀を)帯刀してきましたが,その後勝手に帯刀しているということで,(脇差し)一刀で城下を歩いています。
 ところが,今回京都の吉田家の役人である大角東市が参り,都にて神祇道の取締が改められました。
 右の理由で,社人(神主)がお目見え(面会)するとき,届け出た者は帯刀するよう申し聞かされたので,これからは城下を(大小の)帯刀で歩かせていただきます。
 このことをお届け申し上げます。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第12話 (2003-08-26)

 坂根氏が神主となっていた稲荷神社は,現在も宮津市大久保の京街道沿いにあります。
 小さな神社です。ただし,現在の神主が誰なのかは,未調査なのでわかりません。
 城下を帯刀して歩く届け出の「口上覚」は,文化元年(1804)の日付が記されています。
 このころの大久保稲荷の神主が,「坂根筑前」であったということです。
 嘉永六年(1853),山王社神主の牧氏が記した日記の中にも,神主の坂根氏が記されています。
 「坂根和泉」と「坂根右京」という2名の神官の名が見られます。
 「坂根右京」は「坂根和泉」の子であるようです。
 また,与謝郡誌の大久保稲荷由緒に関する記述には,「坂根石見」という名が記されています。
 この「坂根石見」が初代であるかどうかは不明です。
 慶長四年(1599)に,坂根修理亮の弟が大久保稲荷の神主に任命されてから文化元年(1804)「坂根筑前」の時代まで約200年間あるのですが,この200年間についてはまだ調査できていません。
 ところで,私が不思議に思うのは「なぜ坂根修理亮の弟が神官に任命されたのか?」ということです。
 丹後八十五将といわれるように,一色氏の被官であった小領主の残党は数多く存在したはずなのに,なぜ坂根氏が神官に選ばれたのでしょうか。
 ここで少し考えてみたいのですが,みなさんは「神のお告げがあったから,あなたは神主をやりなさい。」と命じられて,「承知しました。」と引き受けられるでしょうか。
 神道の知識がなければ引き受けられないと思います。
 私は,坂根氏が一色氏被官のころから神道に関わりがあったのではないかと推測しています。
 坂根氏の家紋に「柏紋」を用いている家があることからも,神道(私は出雲系神道と関係があると考えています。)にかかわっていたと見ています。
 また,石川氏滅亡後の幾地城城主「坂根斎(いつき)」という名にも神道の影響があると考えています。
 「斎(いつき)」という名前は,子供のころ幾地城にまつわる昔話を聞いたときから「変な名前だな。」と思っていました。
 この「斎」が,襲名なのか個人につけられた諱(いみな)なのか,はっきり分かりませんでした。
 幾地の「坂根墓」と呼ばれる坂根氏だけが埋葬されている墓群の中に,幾地城城主の墓とされる石碑があります。
 そこには「初代 斎,二代 斎」と彫られているので,今のところ「斎」は襲名であると考えています。
 だいたい戦国時代の武士階級は,「坂根修理亮」とか「三冨豊前守」というように朝廷の官職名を襲名としているのですが,「斎(いつき)」が官職名なのかどうか分かりません。
 おそらく官職名ではないと見ています。
 古語辞典で「斎(いつき)」を調べると,次のように記されています。
 「心を清めて神に仕えること。また,神をまつること。」
 おそらく「坂根斎」の「斎」にも「神に仕える。」という意味が含まれているのでしょう。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第13話 (2003-08-28)

 まず第12話の訂正ですが,「坂根石見」は「与謝郡誌」ではなく「宮津府志」の大久保稲荷の由緒に載っている名前でした。
 神職に就いた坂根氏についてのお話は,第11話・第12話くらいの内容がすべてです。
 現在,大虫神社の神主をしておられる坂根氏が,大久保稲荷の神官とかかわりがあるのかどうかは未調査です。
 また,舞鶴市にある白糸神社の神主さんも坂根氏であったように記憶しているのですが,それについても未調査です。
 次に,四辻の坂根氏について見てみましょう。
「宮津市史 資料編 第2巻」で,次の資料を見つけました。

  四辻村百姓
   坂根市治

右之者,大庄屋江被仰付候

  戌 三月

 短い資料ですが,大庄屋に任命する辞令書です。
 大庄屋というのは,各村の庄屋をまとめる村役人です。
 宮津藩の行政文書を読むと,藩内の村が「組」という単位でまとめられています。
 例えば,嘉永三戌年に提出された納税の文書をみると,次のような記録が見られます。

 四辻組惣代
  弓木村庄屋 市兵衛
  岩屋村庄屋 要助
 上山田村庄屋 安四郎

 四辻組大庄屋 坂根庄右衛門

 この記録から分かることは,「四辻組」に編入されている村です。
 最も西にあるのが「岩屋村」,最も東にあるのが「弓木村」です。
 これらの間にある村が「四辻組」ということです。
 したがって,「四辻組」を構成している村は次のようになります。

 四辻組
  岩屋村,幾地村,四辻村,上山田村,下山田村,(石田村),弓木村

 現代に置き換えれば,各村の庄屋が自治会長,大庄屋が連合自治会長のようなものでしょう。
 ところで,前者の「四辻村百姓 坂根市治」に対する大庄屋任命の辞令と,後者の納税文書は同年に書かれたものです。
 辞令文書には「戌 三月」と書いてありますが,嘉永三戌年三月を略して書いたものです。
 なぜ大庄屋の名前が異なるのでしょうか。
 この疑問については第14話で考えたいと思います。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第14話 (2003-09-03)

 第13話,大庄屋任命の辞令文書にある「坂根市治」という名前は,他の文献には出てきません。
 四辻組大庄屋は,私が調べた限りにおいてはすべて「坂根庄右衛門」でした。
 ここで,この辞令文書の名字に注目したいのですが,なぜ「四辻村百姓」に「坂根」という名字が付けられているのでしょうか。
 江戸時代には,基本的に百姓が名字を用いることは許されていなかったはずです。
 それなのに,「四辻村百姓」の「市治」は,「坂根」という名字を付けて宮津藩から辞令をもらっているのです。
 この疑問を解く鍵は,大庄屋には名字が許されていたという点です。
 宮津藩の文書を見ると,各村の普通の庄屋には名字が付けられていませんが,大庄屋には名字が付けられています。
 おそらく,この「市治」は大庄屋坂根家の家族でしょう。
 そして大庄屋に任命されると共に,「庄右衛門」という名前を襲名したのではないでしょうか。
 ところで,みなさんもお気づきのこととは思いますが,このHPに投稿しておられる奈良県田原本町ご在住の坂根俊輔さんの系統が,大庄屋坂根庄右衛門家にあたると考えられます。
 しかしながら,坂根庄右衛門家は四辻村で大庄屋を務めていたはずなのに,なぜ坂根俊輔さんの本籍地が幾地なのかは分かりません。

 それから,「四辻組」だけを第13話で取り上げましたが,宮津藩内の他の組についても記しておきます。

○ 四辻組 大庄屋 坂根庄右衛門
  岩屋村,幾地村,上山田村,下山田村,石田村,弓木村
  上常吉村,下常吉村,奥大野村,口大野村,周枳村
注:四辻組は,現在の野田川町北側,岩滝町西側,大宮町南側を領域としたようです。

○ 徳光組 大庄屋 永嶋浅治
  和田野村,下岡村,岩木村,浅茂川村
注:四辻組以外の組については,文献に現れた村だけを記しています。
  徳光組は,現在の丹後町,弥栄町の一部,網野町を領域としたようです。

○ 皆原組 大庄屋 三宅忠左衛門
  上司町,石川村,有田村,小田村,香河村
注:皆原組は,現在の宮津市栗田地域,上宮津地域,野田川町南側,加悦町の一部を領域としたようです。

○ 加佐郡組 大庄屋 糸井市郎兵衛
  三河内村,与謝村,明石村,河守村
注:加佐郡組は,現在の野田川町の一部,加悦町,大江町北側を領域としたようです。

○ 岩滝組 大庄屋 糸井市郎兵衛(加佐郡組兼帯)
  長江村,男山村,日置上村,亀島村,岩滝村
注:岩滝組は,現在の岩滝町,宮津市日置地域,伊根町を領域としたようです。

第15話では,幾地の坂根氏についてお話ししたいと思います。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第15話 (2003-09-06)

 今回は,幾地の坂根氏が一色氏滅亡後にどうなったのかをお伝えしたいと思います。
 しかしながら,近世における幾地の坂根氏の資料は,四辻の坂根氏よりも格段に少ない。
 現在のところ最も信頼できる近世丹後の資料は,「宮津市史 資料編」なのですが,幾地村に関する資料は四辻村に比べるとかなり少ない。
 四辻村に大庄屋が置かれたことから考えても,近世においては幾地村よりも四辻村のほうが行政的役割が重かったと考えられます。
 では,近世以前から四辻村が重要な村であったかというと,そうではないようです。
 「丹後旧事記」に記載されている幾地近辺の城主名を見て見ましょう。

「丹後旧事記」より

 上山田村   塩見筑前守

 四辻亀山   荻野悪右衛門
        石川悪四郎

 伊久地砦   赤井五郎
        赤井平治

 同村別城   石川左衛門尉
        石川文吾
        石川五郎左衛門

 この資料の中では,名前が正確か否かは別にして,「荻野」氏,「赤井」氏,「塩見」氏が記録されていることから,丹波黒井城城主荻野氏が丹波守護代内藤氏を破り,丹後まで勢力を拡大した頃の状況を表していると考えられます。
 ここで四辻については「四辻亀山」と記してあります。
 「亀山」は現在の行政区域では石川地区に属しています。
 四辻地域の中心は,一色氏滅亡以前は亀山にあったということです。
 また,幾地地域には,石川氏が守る幾地城と赤井氏が守る幾地砦が見られます。
 幾地地域に二個所も城塞を築いている点から考えて,一色氏滅亡以前には,四辻よりも幾地のほうが重要な地域であったということです。
 さて,本題の一色氏滅亡後の幾地における坂根氏についてですが,今から二十数年前にNHKの「歴史への招待」で紹介された,坂根久二氏所蔵の「坂根家家系図」を手がかりに読み解くことになります。
 この「坂根家家系図」は,野田川町誌にも載っています。
 紙面の関係上,そのまま書き表すことができませんが,書き換えて記すと次のようになります。

「坂根家家系図」より

 石川左衛門尉秀門 ー 秀澄・菊寿・五良右衛門 (秀門の子供です)

 (1)坂根伊津記(斎),菊寿(秀門の娘)と結婚
 (2)道秀 (3)道賀 (4)勇寛 (5)治兵衛 (6)喜平太 (7)市助 (8)七兵衛
 (9)又四郎 (10)平左衛門 (11)安五郎 (12)安五郎 (13)安五郎 (14)安五郎
 (15)久二

この家系図の解説は,第16話で述べたいと思います。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第16話 (2004-08-25)

 ご無沙汰しております。今年は,なぜか多忙で,15話まで投稿してきた野田川町の坂根氏の歴史シリーズもストップしているのですが,白糸浜神社の坂根氏について,HPに興味深い記事が掲載されていたので,その考察を投稿しておきたいと思います。

白糸浜神社の坂根氏について

 舞鶴出身の坂根さんの記事の中に,「白糸浜神社の坂根氏は,元伊勢籠神社の海部氏につながる。」とありました。
 坂根氏が,海部氏と姻戚関係でつながっていたのか主従関係でつながっていたのかは,調べてみないとわかりませんが,坂根氏と海部氏のつながりを示す痕跡を住宅地図に認めることができます。
 元伊勢籠神社の近くに,溝尻という地名の集落がありますが,ここには坂根という家がかなり多く分布しています。
 野田川町の坂根氏は,幾地城主の石川氏と主従関係でつながっていたので,幾地城とその支城があったと考えられる岩屋・亀山地域に坂根氏が分布していることは説明できます。
 しかし,溝尻地域に坂根氏が分布していることは,石川氏とのつながりでは説明できません。
 溝尻の坂根氏が,籠神社の海部氏とつながりがあったと考えれば納得できます。
 それから,もう一つ興味深い内容は,坂根氏が海部氏の命を受けて,ヤハラ神社の神官になっているということです。
 ヤハラ神社というのは,漢字で「笶原神社」と書き,後に「池姫明神」と名を変え,現在では「日尾神社」と呼ばれている神社のことだと思います。
 「笶原神社」は与保呂村・木之下村・常村の氏神だそうです。(「京都府の地名」より)
 この地域には,人に変身した蛇に村の娘が恋をしてしまう昔話が残っています。
 蛇は退治されてしまい,蛇を切った岩を「蛇切岩」というそうです。
 舞鶴市の城屋という地域にも,大蛇が退治される伝説があります。
 蛇退治で最も有名なのは,出雲国が舞台のヤマタノオロチ退治です。
 舞鶴に伝わる蛇退治伝説は,出雲のヤマタノオロチと関わりがあるのではないかと考えています。
 海部氏の命を受けて坂根氏が神官になった神社が,蛇伝説の残る地域の氏神であったことと,坂根氏に元旦にはぜんざいを食べるという出雲系の風習が残っていることには関連があると思います。
 「青銅の神の足跡」という本のなかで,蛇と金属の関連が指摘されています。
 ヤマタノオロチが退治されたときにも,その尾から鉄剣が出てくるのですが,蛇伝説と金属生産には密接な関係があるようです。
 実は,いろいろ調べていると,坂根氏と金属生産には何か深い関わりがあるのではないかと思うことがあるのですが,それについて述べると更に話が長くなるので,また別の機会にしたいと思います。

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野田川町の坂根さんよりいただいたおたより 第17話 (2003-09-06)

ヤハラ神社について(追加)

 「笶原神社」は与保呂村・木之下村・常村の氏神なのですが,神社自体はこれらの村の中にはありません。
 与保呂村・木之下村・常村にあたる地域は,現在東舞鶴の行政区に属しています。
 道路地図には,「笶原神社」ではなく「池姫神社」という名で載っていますが,「笶原神社」は西舞鶴の行政区域に位置しています。
 「笶原神社」は,実に興味深いところに位置しています。
 ひとつは,丹後坂根氏初代と考えられる坂根修理亮が居城としていた左武ケ嶽城の近くであるということです。
 もうひとつの興味深い点は,「笶原神社」に隣接している地域が「池ノ内下」であるということです。
 「池ノ内下」について,次のような武田義統の安堵状があります。

(武田義統安堵状)

 就加佐郡池内下方一円之内和賀名之儀,申趣得其意候,
 於此名者,瓦林跡職一円為新給申付候上者,任先判之旨
 永代可致知行候,殊先年於此段者相尋候処,就下方一円
 不相粉無別儀申付候上者,向後坂根久助其外誰々如何様
 之儀申掠者雖在之,不可能許容候,猶市川信濃守可申候,
 謹言
   五月十六日         義統(花押)
     白井民部丞殿

 これは,一色氏と敵対関係にあった若狭守護の武田義統が,武田家の有力被官である白井氏に対して発給した安堵状です。
 この安堵状から分かることは,池内下の中の和賀名という領地をめぐって「坂根久助」という人が領有を主張し,白井氏と争った形跡があるということです。
 白井氏は,もともと若狭の国人ですから,若狭武田氏が丹後国加佐郡を侵略したとき白井氏が和賀名を領有したと考えられます。
 そのとき,以前から領有していた「坂根久助」と争論になったのではないでしょうか。

 (1) 池ノ内下が左武ケ嶽城に近いこと
 (2) 池ノ内下の領地をめぐって坂根氏と白井氏が争っていること
 (3) 池ノ内下に隣接する「笶原神社」に,海部氏の命で坂根氏が神官として赴任していること。

 以上3点を勘案すると,池ノ内近辺に坂根氏の領地があったと考えられます。

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