北陸本線旧線(敦賀・今庄間 鉄道廃線跡)を走る

北陸トンネル開通記念切符  北陸トンネルが開通する1962年6月10日までは北陸本線は敦賀(つるが)今庄(いまじょう)の間を山の中を通っていました。
 それは勾配が1000分の25という鉄道にとってはかなりの勾配を,山の中をぬいつつ,ぬけていたのでした。
 今でも北陸自動車道はこの間を山の中をぬい,しかも上下線が別ルートというように,やはり山越えの難所なのでしょう。
 この,かつての鉄道が通っていた廃線あとを通り抜けてみました。
 高速道路を利用すれば,あっと言う間に通り過ぎますが,時間があればゆっくり通り過ぎると,トンネルをくぐればまるで列車の運転席にいるような気分にさせられます。
 また,なんといっても杉津(すいづ)からの日本海,敦賀湾の眺めが最高です。高速道路でも杉津にパーキングエリアがありますから,そこから景色を眺めることができます。このパーキングはぜひお立ち寄りいただきたい,おすすめの場所です。(特に下り線,米原から金沢への方向)そこからの景色もこのページに登場します。

(左は北陸トンネル開通記念の急行券です。)

 各ページには撮影地近辺の地図が掲載してあります。

 まずは全体の地図をお示ししましょう。
 黄色→北陸本線旧線
 黄緑色→北陸自動車道
 赤色→現在の北陸本線(そのうちの桃色部分は北陸トンネル)
 青色→国道8号線
 薄青色→国道365号線

北陸本線旧線
 続いては,敦賀湾からの鳥瞰図です。(杉津から約7km沖合上空15000mから。レンズは50mmの標準レンズ)
北陸本線旧線鳥瞰図

 では敦賀から 出発!
  写真はクリックすると大きな写真となります。
 また,次々と次のページに進むこともできます。
 (写真撮影日 2000年8月27日)

木の芽踏切にて  敦賀市内から国道476号線を走る。
 そして,まず国道8号線の下をくぐり,続いて北陸自動車道の下をくぐると,いよいよ山の中へと入っていく。
 現在の北陸本線は木の芽川を渡って,すぐに北陸トンネルに入るのだが,旧線は川の右岸を山の中へと向かう。
 木の芽踏切にて,今庄方向(下り方向),北陸トンネルの入り口を1枚撮影。
木の芽踏切から敦賀方向  木の芽踏切から反対側敦賀方向(上り方向)。
 上を通っているのが北陸自動車道。
 このあたりから旧の北陸本線が分岐していたようだ。
木の芽川沿いに  木の芽川に沿って走る。
 右に木の芽川がある。
 今庄方向。右の町は深山寺という町で,現在の北陸本線はすでに右の山の中の北陸トンネルを進行中。
昔のトンネル  北陸自動車道の上り線の下をくぐり,すぐに下り線の下をくぐり,またもや上り線の下をくぐって大きく右にカーブ。
 ここで北陸自動車道は上り線と下り線が逆になり右側通行のような感じになる。
 北陸本線の旧線は自動車道の下り線(今庄・金沢方向)としばし並行して走ると,いよいよ山の中へと入っていく。
 そこにはまずトンネルが一つ。
 国道は今庄方向のみの一方通行で,敦賀方向は山のすそをまわるように道が造られている。
敦賀方向を見る  上の地点で逆方向(敦賀方向)を見たのがこの写真。
 北陸自動車道の下り線の下をくぐっている。
 現在北陸道の橋脚補強工事中。
再びトンネル  すぐその後にまたトンネルがある。
 はじめのトンネルと同じように,今庄方向の一方通行。
木の芽川沿いに敦賀方向  こうやって木の芽川沿いにどんどん上っていく。
 途中で振り返って敦賀方向を見たのがこの写真。
 左下に木の芽川,右の山の中腹には北陸自動車道の下り線。
 車で走ると,ひたすら上っているんだなあって感じである。
 そして,左の山の中を北陸トンネルが通っている。ほんの300mくらい離れているだけのはず。
新保駅の跡  しばらくすると,獺河内(うそごうち)の町,そしてそこに新保駅のあとがある。
 右の車の止まっている広いところが新保駅のあと。
 右に見える塀は北陸自動車道下り線。
新保駅跡の記念碑  ここに新保駅あとの記念碑が建っている。
 なお新保という町はもっと山の中にある。
 ここからは約3.5kmは離れているだろうか。
 あとで,その分岐点がでてくる。
新保駅の構内配置図  新保駅あとの記念碑の下に新保駅構内の配置図が書かれている。
 これはその部分の拡大。
葉原の町に近づく  新保駅あとを通り過ぎると,まもなく葉原の町が見えてくる。
新保への分岐点  ここで国道は右へ折れる。
 標識には右は「新保2km」まっすぐは「今庄15km」と出ている。
 北陸本線の旧線はこのまままっすぐ,国道と分かれ,県道となった道を行く。
北陸自動車道の脇を走る  しばらくは田んぼの見えるところを走るが,ここで少し北陸自動車道の上り線が見える。
 左に土手があるのが北陸自動車道の上り線(敦賀,米原方向),右に並行して北陸自動車道の下り線。
 右には下り線の「登坂車線」の標識が見えている。
葉原トンネルに近づく  いよいよ葉原トンネルが見えてくる。
 手前の陸橋の向こうに入り口が見える。
 この正面に見える山の下をくぐっていくことになる。
葉原トンネルの入口  葉原トンネルは約1kmの長さがある。
 この北陸本線旧線の多くのトンネルの中で,この葉原トンネルだけ信号機がついている。
 待ち時間約5分。
 青になってから写真を撮ろうと思って待っていて,1枚写真を撮ったかと思ったらあっという間に赤だった。
 あわてて車を動かした。
葉原トンネルの入口を敦賀方向に見る  葉原トンネルを出てから敦賀方向をふり返っている。
 左上に見えるのが北陸自動車道下り線。
 下り線も上り線もこの葉原トンネルに並行してこの山をトンネルでくぐっている。
真っ正面から見た葉原トンネル  真っ正面から見た葉原トンネル。
 敦賀方向。
小さなトンネル  この後トンネルを2つぬけたら杉津駅あと(北陸自動車道上り線杉津パーキング)に着く。
 1つ目は小さなトンネルですぐ向こうが見える。
 左に見える街灯は北陸自動車道上り線のもの。
2つ目の小さなトンネル  葉原トンネルから2つ目のトンネルをふり返って撮影。
 このトンネルはちょっと長めでカーブしている。
トンネルの中  トンネルの中に入って撮影。
 北陸本線のここ敦賀−福井間が開通したのが1896(明治22)年のことだから,もう100年以上も前の道ということになる。
杉津パーキングの石碑  杉津駅あとは現在北陸自動車道上り線(敦賀・米原方向)のパーキングとなっている。
 しかし下り線(今庄・金沢方向)のパーキングがさらにこの上にあり,そちらの方が景色がとてもいい。
 山の中で上下線が入れ代わり,右側通行になっている。
 これは上り線パーキングの芭蕉の句碑。
 「奥の細道」の中の敦賀での一句
 「名月や 北国日和 定めなき」
 である。
★北陸自動車道杉津パーキングと敦賀湾★
 ではここでおまけで,林道栃の木〜山中線から眺めた杉津パーキングの様子。
 写真撮影 1998年秋
杉津パーキング
 上り線が右,下り線が左というように上下線が逆になっている。
 正面の方向が敦賀,右下に杉津の町がある。

杉津パーキング
 パーキングをちょっと大きく撮影。
 右側の上り線の自動車道の少し左に北陸本線の旧線のあとの道が見える。
 また,中央にS字型に見える道は麓から上り線パーキングを経由し,下り線パーキングまで上がってくる道。

杉津パーキング
 敦賀方向を撮影。
 この林道は山中峠から山の中を通り国道365号線へと出る。
杉津の町と横浜の町
 左側が杉津の町,右側が横浜の町。

蕎麦と杉津の町  上り線より下り線が眺めがよいので,下り線パーキングへと向かう。
 北陸道下り線パーキングに着いて,まず一番に腹ごしらえ。
 福井名物,越前そばをいただく。
 この席は一番海よりの席で,この景色を眺めながら食べる越前そばがなかなかうまい。
 窓際のテーブルにそばを置き,ガラス越しに1枚撮影。
 中央に見えるのが杉津の町とその先の岡崎の鼻。
 右に見えるのは上り線パーキングから下り線パーキングへの上り道。
杉津パーキングからの展望  下り線のパーキングには景色のよい展望場所がある。
 パーキングの海寄りに休憩所もある。
見える景色の説明  このように見える景色の説明もしてある。

 カメラを持ってうろうろしていると,そこで掃除をしていた女性に「いい写真が撮れましたか?」と声をかけられる。
 「ちょっと今日は天気がよすぎて,遠くがかすんでますね。」と答える。
 「この間は,すごくきれいな夕日が沈みましたよ。いつもここで仕事をしている私たちでも滅多に見ることのできないすばらしい夕日でした。」とのこと。
 「昔はこのあたりを汽車が走っていたんですね。」と言うと,
 「あの道が,線路のあとですよ。それから下に見える上り線のパーキングのところが杉津の駅でした。」と指さしてくれた。
杉津パーキングから見る北陸本線旧線  この写真がその道である。右の方に見えるのは自動車道のトンネルの入り口だ。
 「どちらにお住まいなんですか。」と聞くと,生まれは南条で,その後今庄に嫁いだとのこと。
 「昔はねえ,汽車に乗って杉津まで海水浴に来たもんですよ。」とのことだったので,思わず
 「ここから海岸まで結構あるじゃないですか。」と驚いて聞いてしまう。
 「小さいころはそれだけ歩いても,海水浴が楽しみだったんですよ。」
 「この下に杉津の町が見えるでしょ。真下は横浜です。杉津は左の方。」そう言って説明してもらう。
 「杉津の町の左の方が海岸で,そこで泳ぎました。」
 今日はほんとに天気がよくてかすんでいる。
 「そら豆をいってもらってね。袋に入れて腰にぶら下げて出かける。泳いでいるうちに皮がふやけてきて,ちょうどよくなったころに食べる。」と思い出話を語ってもらう。
 「泳ぎ終わって,3時頃にまた山を登ってきて,そして汽車で帰りました。」とのことだった。
 ここから杉津の海岸まで1.5kmはあるだろう。下りはいいとして,上ってくるのは大変だ。
 「昔の汽車はねえ,機関車が1両だけじゃなくて,2つもくっついて,しかも前へ行ったり後ろへ行ったりしながらここへ上ってきたもんです。」
 「それから,トンネルがいくつもあってねえ。トンネルをぬけて海が見えたかと思うとまたすぐトンネルで,そうやってこの杉津へたどり着いたもんです。」
 確かに,今庄からこの杉津まではたくさんトンネルが連続している。
 この写真は少し拡大してみた昔の線路あとだ。
 最後に再び上り線のパーキングを撮影する。
 このあたりが駅だったのだなあと考えると,ここは本当に景色のいいところだったのだ。
 「おばちゃん,ありがとう。」と言って別れる。
 「はい,気をつけて。」と見送られる。
 本当はこの人しっかり福井弁でしゃべってくれたのだが,うまく表現できないのであしからず。
 しかし,こうやって歩いていると,このような人とのふれあいがあるのが楽しい。
 再び下って,上り線のパーキングの下をくぐり抜け,旧線のあとへと出る。
 福井県の県道207号線,今庄杉津線ということになっている。
 この後山中峠の下の山中トンネルまでトンネルを6つほど抜けることになる。
 一つ目の第一観音寺トンネルは短い。

 本籍地が京都の私は,小さい頃の夏,何回かここを通ったはずだ。
 しかし全く記憶にはない。
 第二観音寺トンネルは右へカーブ。

 そのころ車のなかった我が家は,金沢から京都は丹後へと向かうのに,汽車を使い,敦賀までは北陸線を利用していた。
 当然のことながら,今庄から敦賀まで,この山の中を通ったはずだ。
 かすかな記憶では,トンネルを通るときには窓を開けてはいけないと言われていた。
 それがここのトンネルだったわけではないだろうが,小さい頃の記憶だ。
 続いての曲谷トンネルは左へとカーブ。

 金沢から丹後までは結構長い道のりだった。
 その途中,小さい頃の私はここからの景色を見て何を考えていたのだろう?
 トンネルを抜けるといきなり海が見えてきたりする。
 こんな風景はとっても子どもの喜びそうな風景だ。(って,自分だけ?)
 左かすかに,杉津の町の岡崎の鼻が見えている。
 だがこの風景もつかの間,次のトンネルへとはいる。
 芦谷トンネル,そして伊良谷トンネルを抜けると最後にかなり長い山中トンネルへとたどり着く。
 山中トンネルを抜けて,ふり返って敦賀方向を見ている。
 これから先今庄まではトンネルはない。
 少し今庄方向へ下ったところに林道の入り口がある。
 右の道が北陸本線の旧線だ。
 ここには「ふるさと林道 山中〜大谷線」という案内(左)と山中峠の看板が旧線寄りに立っている。
 そこには山中峠の由来が次のように書いてある。
  山中峠
 古くから奈良・京都から北陸・東北に入る北陸道は,この山中峠(標高389m)を越えた。
 奈良時代には,近江から野坂山地を越えて松原駅(現敦賀市)に達した北陸官道は,樫曲・越坂・ウツロギ峠へと小坂を登り降りし,五幡(いつはた)・杉津を経て大比田・元比田へと進み,山中峠を越えて鹿蒜(かひる)駅に達した。この駅は旧鹿蒜村大字帰(かひる)(現南今庄)に比定されている。このことは大伴家持の歌に
  可敞流廻(かへるみ)の道行かむ日は五幡の
    坂に袖振れわれをし思はば (万葉集巻十八)
 によってうかがえよう。「可敞流」は鹿蒜川流域の地のことであり,山中峠越えを五幡越えといったと考えられている。
 また,山中峠から木ノ芽峠一帯の山並みを「かへる山」として,古歌が数多く詠まれている。
 平安初期の天長7年(830),木ノ芽峠越えの新道が開かれた。この道は国府(現武生市)への直線に近い峠であったので,このコースに北陸道は移ったものの,山中峠越えはその後も引き続き利用された。
   平成10年4月
       万葉の道辺を探る会
 このように落石覆いがそのまま残っている。
 線路を敷けばいつでも列車が走るという感じだ。
 下っていくと大桐の集落が見えてくる。
 敦賀方向をふり返って眺めている。
 大きくカーブする土盛り。ここを峠を目指して汽車が登っていったのかと思うと,なかなか感慨深いものがある。
 大桐の集落を過ぎたあたりに大桐駅あとがある。
 ホームがそのまま残っているかのような部分である。
 「大桐駅跡」という碑の裏には大桐駅の経歴が以下のように書いてある。

 大桐駅の経歴
 明治43年3月31日,北陸線の難所といわれ,山中トンネルを頂点とした1000分の25の勾配を有し,列車運転の緩和とスイッチバックの拠点として大桐信号所が開設された。
 その後地元の要望に応え,同年6月1日停車場に昇格し,旅客,貨物の取扱営業を開始した。
 当時,旅客7本,貨物6本,計13往復の列車が運行された。昭和37年6月9日,北陸本線複線電化の近代化により,新線開業と共に廃止となる。
 その間54年の永きに渡り,生活物資の輸送等,住民のシンボルとして大きい役割を果たした。
 北陸自動車道の下をくぐりしばらく行くと,上新道の集落になる。
 そこには木ノ芽峠への分岐点がある。
 ふり返って敦賀方向を見ている。
 遠く後ろに北陸自動車道が見える。
 左(敦賀方向からは右)に入っていくと木ノ芽峠である。またそれは新保の町へと続く道でもある。
 いよいよこの小さな旅も終わりとなる。
 下新道の集落のはずれに北陸トンネルの今庄側の入り口がある。
 左端に少し見えるのが北陸トンネルの今庄側の入り口である。
 最後に南今庄駅の前あたりにこの鹿蒜地区の案内図があったので撮影してきた。
 敦賀からこの南今庄まで,20km近くのみちのり,撮影しながら約2時間の小さな旅であった。

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