藤井肇「F12号に金沢を12点描く
藤井肇「F12号に金沢を12点描く」

 藤井 肇(ふじい はじめ)氏は私の大先輩であります。同じ職場(野田中学校)で美術を教えていた氏は,ありとあらゆることに興味をいだき,人並みはずれた情熱と力,そしてたぐいまれなるユーモアのセンスと話術で,生徒も,そして教職員までも魅了していた人です。
 では,藤井 肇氏のことを少々紹介しておきます。
 (くわしくは 藤井肇仮想美術館 休憩室 へ)
 1933(昭和8)年生まれ
 1952年 金沢泉丘高校卒業
 1955年 金沢美術短大(3年制・現・金沢美術工芸大学)油画科 卒
 1955年〜 金沢市立森本中学校に勤務
 1966年〜 金沢市立泉中学校に勤務
 1977年〜 金沢市立野田中学校に勤務
 1987年〜 石川県議会議員を2期つとめる
 日本海造形会議事務局長として,創立以来活動
 その他,地元石川テレビの子どもの歌番組「歌のホームラン」審査員として5年半活動

 その彼の1996年夏の作品が「F12号に金沢を12点描く」です。
 ここではその絵の紹介と,それにからんで私が金沢のことを少々紹介いたします。
 「へえー,これが金沢!」を描いたと藤井氏は言っていますが,実は長いこと金沢に住む私も行ったことがない所があります。だから,やはりこれは「へえー,これが金沢!」でしょうか。
 ちなみに,これらの絵は油絵で,しかも蛍光色の油絵の具が使われていますが,デジタルカメラの映像と256色の画像ではなかなかそれが現れていません。私の撮影技術とその後の画像処理が下手!と言うべきかも知れません。ぜひ実物を見てください。
 また絵の横の言葉は,絵の解説ではなく勝手に金沢紹介(?)をしているだけですので,あしからず。
 とにかく金沢に来まっし,見まっし,遊んでいくまっし。
(注.このページは当ウェブサイトで藤井肇の作品を紹介した初めてのページでした。そのために経歴なども載せていました。その後 藤井肇仮想美術館 が開館しましたので,このページの記載内容には,若干の重複があります。)

「けやきの学舎だったところ」

けやきの学舎だったところ  兼六園(けんろくえん)の近くにある石川県立歴史博物館です。もとは陸軍の兵器庫として建てられ,その後金沢美術工芸大学の校舎として使われました。藤井氏もこの美術工芸大学で学び(?)ました。
 で,けやきの木があるらしいのですが,そんなものどこにあるのでしょうか?何回もここに足を運んでも,意識がなければちっとも気がつかないということですね。
 この近くにあるもの
 兼六園 言わずと知れた,でも,知らない人はちっとも知らない,日本三名園の一つ。
 成巽閣(せいそんかく) 加賀藩主 前田斉泰が母の真竜院のために隠居所として建てたもの
 石川県立美術館 国宝仁清作色絵雉香炉 なんてものもあります。
 能楽堂 金沢は加賀宝生の本拠地です。市内の中学3年生は年に1回はここで能と狂言を鑑賞します。

「四高だったところ」

四高だったところ  旧制の高等学校のうち,第四高等学校が金沢にありました。現在の金沢大学理学部の前身です。1891(明治24)年に建てられ建物で,現在は石川近代文学館となっています。と言っても,四高の校舎がすべて保存されているわけではなく,図書館だったこの部分だけが残っています。
 石川県が生んだ三大文豪,泉鏡花,室生犀星,徳田秋声をはじめ,石川県ゆかりの文学者たちの資料がそろっています。
 四高の敷地の残りは「中央公園」ということで,芝生の公園となっていますが,名前の割にあまりに小さすぎます。歩いて3分で横切ってしまい,「どこに公園があったの?」という感じです。名称を変えた方がいいんじゃないの?と思うのは私だけ?

「犀川大橋」

犀川大橋  金沢の街は,東北に浅野川(あさのがわ),西南に犀川(さいがわ)の2つの川が流れています。
 そのうちの一つ,犀川にかかる犀川大橋は金沢の繁華街片町に近く,国道157号線が通る橋です。
 この橋のたもとにある交番の横にあるのが雨宝院。作家室生犀星が多感な青年時代を送った寺です。
 その近所にあるのが,私がわけもわからない多感な乳児時代を送った裏千日町です。ちなみに一つも記憶にありません。0歳児だったもので……。
 ついでに,野次馬根性旺盛な私の亡き祖母は,犀川の大水の時,わざわざ氾濫する川を見に行く,好奇心旺盛なばあちゃん(当時はねえちゃん)でした。
 とはいえ,普段は穏やかな流れの犀川で,犀生が「うつくしき川は流れたり そのほとりに我は住みぬ……」とうたいました。

「浅野川の橋」

浅野川の橋  もう一つの川,浅野川に架かるのがこの浅野川大橋。
 犀川に比べ,なんだか寂しい浅野川。この橋のずっと上流に住む私はもっと寂しい!?
 でもゆっくり川縁を歩けば,落ち着けるのも浅野川。泉鏡花の「滝の白糸」(原作は「義血侠血」)で広く知られているのが浅野川。浅野川大橋から,天神橋にかけて「鏡花の道」があります。この道の途中に滝の白糸碑があります。
 しばらく上流に向かって歩いていくと,卯辰山に上っていく天神橋があります。滝の白糸と村越欣也がこの天神橋で再会して,悲恋が始まった……

「火の見やぐらのあったところ」

火の見やぐらのあったところ  犀川大橋を片町方向から渡りきると,左手に蛤坂(はまぐりざか)という坂がある。そのあたりに火の見やぐらがあった。(いまもある,らしい?)金沢もビルが建ち並び,火の見やぐらで見通せるような街じゃないけど,そういえば,ここにそんなものがあったような気がする。
 「男はつらいよ」で寅さんが金沢に来たときに泊まったという設定になっているのがこのあたり。映画を見に行って,寅さんの肩の向こうに犀川が見えて,「あ,これって蛤坂のあたりじゃないの。」と思った覚えがある。

「東のお茶屋だったところ」

東のお茶屋だったところ  金沢にその昔あった花街の一つ。東の浅野川のさらに東にあるのがこの「ひがし茶屋街」。
 1820(文政3)年に藩がお茶屋を集めて町にしたものです。このひがし茶屋街は今かなり整備されて,紅殻格子の続く町並みが再現されています。
 この近く寿経寺には七稲地蔵があります。1858(安政5)年に米の高騰で飢えた町民たちが,卯辰山(お城の卯辰の方向にあるのでこう呼ばれた)に登り大声で直訴しました。この騒動の首謀者として処刑された7人の霊を慰めるためにつくられたお地蔵さんです。

「西の検番だったところ」

西の検番だったところ  西の犀川のさらに西にあるのがこの「にし茶屋街」
 「検番」なんて今時の若い人は知りませんよね。私も知りません。広辞苑で調べたら『芸者屋の取締り,芸妓に口のかかったときの取次ぎや玉代の精算などをする事務所。』とあります。それでも何それ?と言いたい人は金沢へ旅に出ましょう。今なお検番だったところが残っているのが金沢ですよ。

「煙草をつくっていたところ」

煙草をつくっていたところ  日本専売公社改め日本たばこです。町の真ん中,玉川町にあります。
 この近所には玉川公園,市立図書館があります。
 金沢の街もちょっと裏にはいると静かなもんです。

「染物屋だったところ」

染物屋だったところ  市内の真ん中,里見町あたりに染物屋さんが多くあったそうです。
 しかし,そんなことは一つも知りませんでした。とにかく金沢の町は戦災にあわなかったので,江戸時代の城下町の入り組んだ道が多く残っています。道をまっすぐにしておくと,敵に攻められたときに,簡単にお城にたどり着くというので,道はすぐに折れ曲がったり,三叉路になったり。車で走るのは一苦労。このあたりも,かなり狭い道です。
 また,このあたり鞍月(くらつき)用水が香林坊へと流れています。町民の手によって,正保年間(1644〜48)につくられたものです。

「東山あたりの家」

東山あたりの家  東山近辺には「ひがし茶屋街」があるのですが,このあたり,四十数か寺が山麓に点在する卯辰山山麓寺院群があります。
 七稲地蔵,朱塗りの仁王門が鮮やかな全性寺,泉鏡花が幼少の頃,母に連れられて詣でたという真性寺,赤い鳥居が連なるように立ち並ぶ竜国寺,三尊来迎図のある心蓮社,金沢の茶道裏千家の千仙叟宗室を祀った月心寺など,たくさんの寺院があります。

「粟ケ崎の駅」

粟ヶ崎の駅  金沢駅から内灘まで,北陸鉄道の電車が走っています。北陸鉄道浅野川線で通称「あさでん」です。
 河北潟に注ぐ浅野川に沿って走るこの電車,その昔フナ釣りに行くために,この電車に乗った覚えがあります。今は河北潟も半分干拓されてしまいました。
 終点内灘は,五木寛之の小説「内灘夫人」の舞台ともなったところです。また,戦後は米軍の砲弾試射場設置に反対する「内灘闘争」でも有名になりました。

「大野の灯台」

大野の灯台  河北潟から流れる水が大野川となり,日本海に注ぐところにあるのが金沢港。そして,もっとも海に近いところにあるのが大野の町と大野港です。
 この大野で有名なものは灯台と醤油。
 金沢で灯台といえば,これしかない。
 この町の,大野港にほど近く「宝生(ほうしょう)寿司」というのがあって,これがまたうまいんだな。いつ行ってもいっぱい。なにしろ金沢は魚のうまいところだと思うけど,だから,寿司もうまい。